昭和54年12月20日 朝の御理解



 御理解 第77節
 「人の悪いことを、よう言う者がある。そこにもしおったら、なるたけ逃げよ。陰で人を助けよ。」

 先日から父の式年祭を奉仕させて頂いて、私の従弟達にも皆、案内をしておりましたから、皆んなまいりましたが、その中の一人だけが、具合が悪いして来られんというてその電話が掛かって来た。それで明くる日、栄四郎にあの引き物やら、色々持たせてやります時に、具合が悪くて休んでおるなら、お見舞いも持たせてやらにゃいかんじゃろうと思うて、神様にお願いしたら、お見舞いはいらんと言う事だったからやりませんでした。したら帰って参りましてから、おっちゃんは一生懸命働きござったち。
 言うて帰ってまいりました。結局その忙しかもんだから、具合が悪いというて、まぁ断ってきとったわけです。まぁどうした奴ちいうちから普通こう、まぁいうところでしたけれども、向こうの気持ちになったら、それこそ仕事が大事で一生懸命だから、まぁそうそれも本当だろうとこう思わせて頂いたら、かすかにここにお勇みを頂きました。それぞれのやはり、その生き方というものがありますから、なるほど彼にとっては叔父の、しかも大変私の父にお世話になっておるとこですから。
 何を置いてもまぁ出てくるのが本当なんだけれども、なら彼自身の生き方からいうと、そう言う事よりもやっぱり働く。そのしかも忙しいのに、その時間を置いてまでそちらにお参りをする。嘘でもいうてお参りが出来ないと言う事。務めてというのではなくて、自分の生き方をにそれぞれの生き方があるから、その生き方を彼は貫いておるんだと。まぁ言う事をいうとそういう風なふうに私は感じたんです。そしたらあのお勇みを頂いたと言う事は、やっぱりそういう受け方頂き方の方が本当だろう。
 義理にでも出てこにゃすまん。どうした奴じゃろうかということは、やっぱり本当じゃないと言う事になりますよね。昨日、久保山さんがお届けされますのに、先日村内のまぁお友達でご夫婦でずっと皆さんあの、温泉にまぁおいでられたんです。そして帰って見えてからのここのお届けです。もう昨日はおかげを頂きましたち。おかげを頂いてもう人の悪口を一言も、言う事がいりませんでした。またそんな話しが出ませんでしたと。まぁ有り難いお話ばっかりでしたという、お礼のお届けがございました。
 はぁ何人か村内の気の合うたもんばっかりで温泉に、すと気に合わんあれどんがなんとか、かんとかと言って必ず人の悪口があの出るもんですけれども、まぁ昨日はおかげを頂いて人の悪口一言も出らずに、まぁ有り難い楽しい温泉行きでした、とこういうお礼のお届けがございました。ここで人の悪口を言うということ、もう信心する者のいう事ではない。信心させて頂く者はもしそういうところにおったら、出来るだけ逃げよと。その場を逃げよと。難しいことです。
 人の悪口悪口やらが噂にのぼったりすると、もうそれこそ耳をかたむけて聞こうとしたり、またはそれにかたって一緒に悪口をいうたりというのが普通ですから。その普通ではおかげは受けられんというのです。信心させて頂く者は。信心のない時にはそうであったかも知れないけれども、信心させて頂くようになったら、人の悪口どんいうだんじゃないぞと。いやもしそういうところにあったら、その場を逃げよということなんかは、精進信心の精進です。
 もう昔でしたけれども、北野の江口という村があります。そこから今の日吉さん達兄弟が熱心にまいっておられました。江口の村内の人達が4、5人である時参って見えて、あなた方は江口からですかと。江口のあの日吉いせのさんと富子さんというご兄弟は、ここに熱心に参ってきますよちいうたら、それででしょうあの人達はもう人の悪口どん言う人がありませんもんね、というてその4、5人の人が口を揃えて言いました。
 そしてして人の悪口どんいよると、すれっとして何時どこさえいかっしゃったじゃ分からんごつして、おらんごつなんなさるですのうやちうてから、話をされるとを聞いて、私は大変嬉しいと思ったことがある。信心させて頂く者はこれを実行してござるわけ。恐らくそういうみ教えが身に付いて行きよんなさるとです。あの人達兄弟は人の悪口どん言う人じゃないと。
 いやそしてから人の悪口どんが出るとっさい、何時の間にかどこかすれっとしておらんごとなってです、とこういう話を聞かせてもろうて、有り難いなぁとこう思わせて頂いたことがあります。ね、すれっとしてそこを場を逃げよと仰るということは、やはり本当は難しいですね。本当に人の悪口でも言いよったら、それこそ耳を傾けて聞こうとする。のが何か人間の心の中には、そういう心の状態がある。だからそういう人間の、まぁいうなら浅ましいその心というものを、取り除いていこうと。
 改めようとすることが信心なんです。ね、みやすいようでみやすくない。また難しいようでこんなみやすいことはない。その気になればこんなみやすいことはない。それで教えを守ることになり、教えを行ずることになるならば、こんなみやすいことはない。私は今日は、77節ということを頂いて、それを特にそう思うんです。七というのは、一を書いてとこう曲っとる。
 そうすればこう曲っとるから七になるですけれども、これをちょっと真っ直ぐ、ちょっと真っ直ぐすりゃ、+(たす)という字になるでしょうが。この頃から申しますたい、この頃から御神米が七体下がるという人達の場合は、やっぱ神様の大きな期待があるんじゃろうと思うですね。今考えておることは間違っておるぞと。改めないかと、神様が精進を求めておられるのだと思います。
 七の字を頂いたら、はっと自分の心に気付かせて頂いて、改まることに精進するということだと思います。しかもその七が+になってまた七。77節とあるのですから。もう改まる上にも改まらなければ、そして、それこそ人の悪口でも言うておったら、ね、その場を逃げるといったような、簡単なことができないような事が、それがその気になれば簡単に出きる。
 それで七の字が+の字になるなら、こんな素晴らしいことはない。たったそのくらいのことで神様が喜んで下さるならば、神様に喜んで頂くような、心の状態になろうということが信心なんです。いと簡単、それがなかなか出来ない。それけれども本気でそうだとやる気になれば、こんなまたみやすいことはない。それが神様が喜んで下さることならば、その簡単な事に取り組んで、おかげを頂きたいと思うですね。
   どうぞ。